オーストラリアの西の南のこと

この文章について

この文章はKUCC(京都大学サイクリング部)部誌「誘惑」1998年5月号から1999 年5月号まで,5回にわたって連載された旅行記を修正し,写真を加えたもので す.

1. まだオーストラリアに入る前の話

飛行機の都合でクアラルンプールで一泊しなければならなかった.暑かった. 緯度がほとんどゼロだもんね.それにしても,飛行機ってあっさりと自分の存 在記録最南端を更新してしまう.空港でやっぱり宿を探していた日本人の大学 生と一緒に市内まで行き(輪行袋が重かった),宿について重たい輪行袋を下ろ すと,長谷川さん(KUCCの先輩)がいた.次の日はタイに行くという長谷川さん と一緒に空港まで行った.東山がつぶれた話をすると,えらくおどろいていた. あとこの夜に,そこの宿にいた日本人たちと,山根が教習をAT限定に変更した ことを話題として大いに盛り上がった.山根,ごめん.

2. パースについてから


パースの空港

パース(人口140万)の空港は驚くほど小さかった.そしてやっぱり暑かった. その日の宿はパースの町中に程近いBackpackersだったけど,やっぱり日本人 が大勢いた(というかほとんど日本人だった)しかも,ワーキングホリデーだ かスチューデントだかしらないが,そんな感じの人ばっかりで,とても話しか けられる雰囲気ではなかった.垣谷が去年の北山杉のツアー報告で「パースの ユースにいたワーホリ(ワーキングホリデー)の日本人」に失望したことを書 いていたが,こんな人ばかりを見てたらそうも思いたくなろう,という感じだっ た.とはいっても,彼らと全くコミュニケーションできなかった責任の半分く らいは僕にもあろう.そのときの僕も心を閉ざしていた.その日の夜は結局だ れとも会話せずに一人寂しく寝た.前の日の夜にクアラルンプールの町中で日 本人の大学生たちと楽しく夕飯を食べていたのとえらく対照的だった.


パースの街

すごく嫌気がさした僕は次の日とっとと出発した.本当はもうちょっとゆっく りするはずだったのに.Tourist Officeでいろいろと情報を仕入れていたら,今 日が休日だということを知り,ショックを受ける.買い出しをいろいろとしよ うと思っていたのに何もできない.あせって,あせってすごくいらいらしてき た.パースっていう町に八つ当たりしていた.つくづく自分に嫌気がさした. 町中をうろうろしていたら地元サイクリストに話しかけられて隣町の Fremantle まで行けばあいている店があるらしいということになって,走るこ とにした.気温はだいぶ上がっていて,20kmかそれぐらいを走るのが地獄だっ た.なんでこんな低緯度地方に来てしまったのだろう.やっぱり僕には寒いと ころの方が向いているのかも知れない.

Fremantle(人口2万5千)はヨーロッパっぽい小さな町で活気があった.おまけ にTourist Officeのおばちゃんはすごく親切で,かなりうれしかった.まだ2 日目にして暑さと孤独のためにこの国がいやになりかけていただけにうれしかっ た.まだお昼少し過ぎだったけど,この町でゆっくりすることにした.ちょっ と買い物して,ずっと手紙を書いていた.


アシカ

次の日の朝目を覚すと同じ部屋にもうひとり日本人がいた.名はヨージさん. 僕が起きるなり「アシカと泳ぐツアー」にさそってきた.人が足りないらしい. とりあえず別に急ぐ理由はなかったので一緒に行った.ヨージさんはワーホリ でビザがあと1 週間ぐらいしかなく,旅急いでいる人だった.「4週間じゃ短 いよね」(僕の滞在期間のこと)とか言われて,そういうものかなってそのとき は思ったけど.この先行く先々で日本人にもイギリス人にもオーストラリア人 にも同じことを言われ続けた.そんなものかな.「アシカと泳ぐツアー」はす ごく楽しかった.参加者は4人だけで,僕たち2人と,オーストラリア人の兄妹 (逆かも知れない:つまり姉弟)だった.ちょっと離れた無人島まで船で行って 泳いだけれど,鍾乳洞っぽいところとかいろいろあった.久しぶりに海で泳い ですごくたのしかった.むちゃくちゃ底まで見えるし.(水の透明度が高いの ね)

3. 暑かった時のこと


暑い道

FremantleからAugustaまでは暑さと戦いながらひたすら走っていた.もう暑い ところなんか自転車で行くもんじゃないね.もしかしたらこの大陸にいる間, 雨に出会うことなく日本に帰ることができるんじゃないかともこの時はちょっ と思った.いくら水を飲んでもすぐに体が乾いてきて(というように感じて), あの日本の林道がえらく懐かしく思えた.いくらでも道ばたには水が流れてい て,水がわいていて,どんなに暑くても水だけは豊富なあの林道に帰りたかっ た.ほとんど人と話もしなかった.朝日がのぼるときと夕日が沈むときはこの 上なく美しかったけれど,日中は太陽の過酷さを思い知った.海は真っ青だっ たけど,だから何.星がきれいだったけど,だから何.夜になっても露が全く 降りない.Busseltonの町で,「日本人,2年くらい前に1人見たよ」とか言わ れて,本当にここはオーストラリアなのかとかおもった.パースの町にはあん なに日本人があふれていたのに.途中でシドニーまで行くという日本人のサイ クリストに1 人会った.名前は聞き忘れちゃった.彼はオーストラリアは3ヶ 月で終えて,どこかに行くらしかった.というわけで僕が会った日本人の中で は数少ない観光ビザの人だった.「学生ですか」と驚かれた.このあともこれ ばっかり.結局日本人の大学生には1人も会わなかった.会う日本人会う日本 人僕より年上で面白かったけど.このころは走る気が全くおこらずに,昼から は泳いだり手紙書いたり昼寝したりしてた.


Kari の林

Augustaではキャンプ場(Caravan Park:日本人は「キャラパー」という)に泊っ ていたけど朝起きたらはじめての雨が降っていておまけに胃か腸が物凄くいた くて動けなかったので,その日は1日中寝ていた.このツアーではSaint Exuperiの「人間の土地」を読んでいたのでこの日もずっと読んでいた.本気 で集中できるときにああいう本を読んでしまうと自分の考えがどんどん影響さ れてしまう.それだけ自分が少ないのかな.自分が弱いのかな.

次の日も雨はやんでいなかった.それどころかより強くなっているような気が した.「暑くないからかえってありがたいや」と思って,走り出した.「75km 何もないところ」を激雨の中走っていくのは結構楽しかった(暑いのに比べれ ばどれだけましか).この辺はkarriという木がいっぱい生えている森の中で, 結構雨が似合う.脇道のダートに入って10kmとか走れば面白そうな森の中に行 けるけど,自転車ではちょっとしんどい.この国は車で走るべきところなのか なあ.でも太陽がいないこと(雲があること,雨が降っていること)のありがた さをつくずく感じた.

4. Nannup の町のこと,出会った人のこと

この日たどり着いた町はNannup(人口1,100)という田舎町で,すごい良かった. 雨が似合っていた.ここで手紙を出したら,郵便局のおっさんは JAPAN,JAPAN.. とか言って表を探し出すし.夕方キャンプ場でお茶を飲みな がら本を読んでいたら,1 台の車が若者を乗せてやってきてテントと2人を下 ろして去っていった.この2 人は日本人の女の人とイギリス人の男の人のカッ プルで,日本人の女の人(名前はココさんて言ってた)がいろいろと話かけてき た.イギリス人の方の名前は忘れちゃった.当然のように2人ともワーホリで, 「観光ビザなの?!」とか驚かれた.夜はココさんの料理をありがたく頂くこと になった.ココさんはすごくきれいな人で,イギリス人がすごく羨ましかった. 夜は結構日本語で語っていた.秋田出身で今まで秋田から出たことがなかった. でもどこか行きたくてオーストラリアに行くことにして仕事やめて来た.何も 考えずにビザだけとってきたら,パースについて何していいか分からなくて駅 の前でずっと泣いていた.僕が今まであんまり会ったことのないような人だっ た.何も考えずに,何するかも決めずにこんなところまで来てしまうなんて. この人には「日本帰ったら何するんですか」とは聞けなかった.本当に何も考 えてなさそうだった.でもとりあえずは楽しそうだった.


Nannup の古い鉄道橋

この2人はすごくぼろいテント($30だったらしい) で寝ていた.夜は雨が浸水 してきて大変だったらしい.1人だったらかなりブルーになるところだけど, この2人はそれさえも楽しんでいたようだった.だれか自分と一緒にいる人が いればそうなのかもしれないけれど.ソロでない限り,逆境を楽しめてしまう, というのは結構真だよね.ツアー中の逆境が楽しみに変わるのは僕の場合ソロ では有り得ないことだなあと,ちょっと思う.でも時々ソロでも逆境を心から 楽しんでいる人がいて,かなわないと思う.最後の方で会ったキチさん(てい う日本人サイクリスト)もそんな1 人だった.自分が一番劣等感を感じるのは 自分が楽しんでないときかな.今回も走っているときに心から楽しめていない ことがいつも引っ掛かっていて,何回も走るのをやめたくなった.暑さのせい かな.それだけじゃないだろうな.日本に帰っても自転車に乘る自信がないぐ らいに,北山でサイクリングすることさえも,楽しめるかどうか分からないぐ らいに.その一方で地元の人とかに,「楽しんでる?」とか聞かれてYes, of course!としか言えなかった.何でだろう.そりゃ確かに4 週間ぐらいなら, 本音を見せることなくやっていけるだろうけど.それにしても日本で計画を立 てていたときのあのドキドキはどこへ行ってしまったのだろう!

でもこのNannupでの夜は楽しかった.この2人の他にもオーストラリア人の老 夫婦と話をした.僕が今回は4週間の旅行であると言うと,その後いつか戻っ てきてオーストラリアに永住する気はないか,聞かれた.意外なことにこの質 問はあちこちで何回もされた.日本人が日本に来た外国人にこんなことを聞く だろうか.「昔は国によって,民族によって文化が違っていたけど,今の若い 人の間では当然のように文化は混ざってきている.そしてそれはすごくいいこ とだ」って言われた.「オーストラリアが気に入ったのなら,是非住むべきだ よ.今の若い人にはそれができるんだから」この国についていろいろ考えてし まった.

次の日の朝早くまだ雨が激しく降る中,僕は次の町へ向けて出発した.次の町 もすてきな町だった.もう何日雨が降り続いているのだろうか.3日目?4日目? とにかくそんなもの.

5. Pembertonの町のこと


この頃は雨が降っていた

朝起きたら激雨だったけど,しょうがないので出発した.ココさんが見送ってく れた.本当にマイナーな道路で車はほとんど通らないけれど,たまに通る車はみん な手を振ってくれる.森に雨ってやっぱり美しい.60kmぐらいで次の町につくんだ けど,雨は本当にひどくて靴の中まで濡れてしまった.Pembertonの町につくころ にようやく雨はやんだ.青空を久しぶりに見た.お昼ぐらいに着いちゃったのでゆっ くりしようと思ってキャンプ場に行ったら,$12とか言われて腹が立った.おまけ に今日の天気を聞いたら夜雨が降るから,Backpackersに泊ったら,とか言われた. Backpackersに泊っても$14ぐらいなので,そうした.読書したりシャワーを浴びた り買い出し行ったり,ぐだーっとして午後をすごす.客はそのときは僕しかいなかっ た.空は夕方になるにつれて雲に覆われて,雨が降りそうになってきた.あーまた 雨か.

夕飯を作っているときに,大量のお客さんが来た.スイス人とかアメリカ人と かドイツ人とか.日本人の女の人も一人いた.その名もタカちゃん(あとで別 の人に聞いたら本名は全然違うらしい),でも感じ良かった.野菜を切ってい た僕と「日本人ですか?へー.ビザどれくらい残ってるんですか?」「あー, 僕ただの学生で観光ビザなんですけど」という会話がなされた.「こんな町に いる人絶対ワーホリだと思うよ」と言い訳された.「私もう少しでビザ切れる んですよー.帰りたくないよー.」僕にとってこの人は前の日にあったココさ んとは正反対の人だった.「やっぱり旅は一人がいいよねー」というタカちゃ んは赤い車でひとりで旅してるワーホリな日本人で,カンガルーを車で轢いた 話とかをしてくれた.「でもこの国はきっと一人で旅するところじゃないです ね」と僕は思っていたんだけど.タカちゃんはあと2日ぐらいでEsperanceまで 行き,帰りは一人では寂しいのでだれか乗っけてパースまでもどる予定らしかっ た(あとで分かったことだが,この人には計画性のかけらもなかった).3,4 日 だったら,一人の方が絶対いいかな.Esperanceって,それ僕があと10日ぐら いかかって行く800km は離れたところじゃないか.タカちゃんが料理を作りす ぎたようで,だいぶ僕が食べた.これで2日連続で日本人の女の人に料理を作っ てもらった.

ドイツ人とかスイス人の人たちは集団でバスでBackpackersをまわっているひ とたちで,夕飯は外食してて,夜も次の日が早いらしくとっとと寝てしまった のであまり話をしなかった.夕飯の時台所にいたのは,僕とタカちゃんとアメ リカ人の女の人2 人だった.彼女らも実はパースから来ている空荷サイクリス トで「カッパがないから停滞している」と言ってた.うーん日本じゃそんなツ アーできないな.アメリカ人の女の人らが部屋に帰っちゃった後,もう2人日 本人の女の人が来た.一人はワーホリでもう一人はその人の友だちで3ヶ月前 に「仕事やめて来ちゃった」人だった.次の日はあまり走る予定じゃなかった ので,遅くまでこの人らと話していた.タカちゃんは「日本帰ったら今度はカ ナダかニュージーでワーホリをする」と言っていた.なんでもピッキング(ワー ホリの人がよくやる仕事で,果物の収穫) にはまってしまったらしい.変な人 だった.

6. Northcliffの町のこと


Northcliffで泊まったところ

朝まだ雨が降っていた.アメリカ人の女の人らは今日も停滞するらしい.僕は 午前中,タカちゃんとうだうだしてたが昼前にあきらめて出発した.いい加減 単調な森林とup-down に飽きたころNorthclifeの町に着いた.むちゃくちゃ小 さくていい町だ.Tourist Officeに行ったらおばちゃんはすごく暇そうで,キャ ンプ場に電話してベッドのあるキッチンに泊らせてくれるように頼んでもらっ たりした.ちなみにキャンプ場のおばちゃんとは友だち同士のようだった.小 さい町だけあってキャンプ場も安かった.キッチンにはお話の通りベッドがあっ て,すごく快適だった.薪ストーブがあって,薪は使い放題と言われたので, ストーブで飯を炊いてみた.料理もしてみた.うーん一人だけど今日は幸せ. 雨はまだ止まなかったけれど.テントだったら相当ブルーだったろうな.さす がにこの町では日本人どころか旅行者は全くいなかった.メインルートからは ずれちゃったからね.

7. 雨はそろそろ止みそうだと思った.

Northcliffの町で朝起きたら雨はやんでいた.ちょっとガスっていたけれど. 暑くなったらえらいことなので急いで出発した.まじで暑い日とかは10時を過 ぎたらやる気がなくなるので10時までにどれくらい走れるかが勝負だった. 朝6時前とかは走るのにはかなり最高な時間だった.今日はひたすら東に向か う.行く前は「ひたすら東に向かって走るから左腕だけ日焼けしたりするかな」 とか下らないことを考えていたが,別に右腕も日焼けした.何10kmか走ったと ころで国道1 号線に久しぶりに再会した.Bunbury で別れたきりだったから, 1週間ぶりの再会だ.これでオーストラリア1 周のメインルートに戻ってきた ことになる.でも再会した1 号線は別れたときよりだいぶ貧弱になっていた. 交通量も少なく,路肩もないような道だった.110km/h 制限は相変わらずだけ ど.そういえばBunbury の町についてなんだけど,僕はこの町に自転車で1回 しか行ったことがないのだけれど,何かその後にもう一度行ったことがあるよ うな気がしてしょうがない.何でだろうか?さっきまでもう一度行ったことが あると本気で信じていたぐらいだ.変なの.

8. Walpoleの町とPaulとSusanのこと


Paul と Susan の自転車

100kmぐらい走ったら次の町であるWalpoleが現れた.道路沿いの公園でテント を干している2人のサイクリストがいた.彼らはPaulとSusanていうオーストラ リア人のカップルで,シドニーから北を回ってWAに来たと言っていた.これか らまた南を回ってシドニーまで戻るんだって.彼らの話によればオーストラリ アにいるサイクリストの半分は日本人で,さらにその半分は1周しているみた いだ.彼らは北の方で多くの日本人サイクリストといっしょに走り,いっしょ にキャンプしたらしい.SusanとPaulの日本人に対する感想は「飯を炊くのが うまい」「英語がとても下手(というかほとんど喋れない)」ということだった. そりゃあ日本人は毎晩米を食べているのだから米を炊くのがうまいのは当然だ ろうな.英語に関しては,「英語なんか喋れなくてもなんとかなる」という姿 勢が僕にはちょっとうれしかったし,羨ましかった.それってすごく素晴らし いことのような気がする.彼らの自転車には750mlのボトルが8本させるよう にボトルケージが8個ついていた.もう2時近かったが僕も彼らも昼飯をまだ食 べていなかったので,一緒にスーパーに行って昼飯を買ってきた.サイクリス トの昼飯なんてどこでも同じみたいで,彼らもパンと果物とヨーグルトぐらい しか食べてなかった.

Paulの第一印象は「すごく几帳面」である.サイドバッグは2人分とも彼の手 作りだったし(Susan がすごくうれしそうにそのことを話していたのが印象的 だ),極めつけは,チャリにサイドバッグをつけるときに秤で重さを計って同 じ重さになるようにしてからつけていることだった.彼らは今日はWalpole の ホテル?にとまるらしいので僕もそうすることにした.$15で個室に泊れるん だからいいところだ.

ホテルのおばさんは(名前を忘れてしまった)日本人大好きみたいで,いい人だっ た.僕がついた途端に紅茶を入れてくれるし,ものすごく居心地のよい宿だっ た.ただ,日本人の名前をどうしても覚えられないらしく,僕のことを"Fred" と呼んでいた.そのうち,ほかの客もみんな僕のことをFredって呼びはじめた. まあいいんだけど.Paul だけは律儀に最後までAtsushiって呼んでたけど.こ の日は日本人のカップルも泊っていたんだけど,PaulとSusan はサイクリスト で,話題が合ったし,宿のおばさんは人なつっこくていろいろしゃべりかけて くるしで僕の頭も英語モードになっていたので,彼等とはしゃべり損ねてしまっ た.彼らとは結構気まずくて,何も学習していない自分がいやになった.外国 での日本人との間の取り方ってすごく難しい.

ここでアラスカから来ているおじいさん(と呼んでいい年だと思う)に出会い, 一緒に夕飯とコーヒーを飲んだ.その人が住んでいるところは,内陸で,冬に は-40度まで気温が下がるかと思えば夏には+40度まで気温が上がるところら しい.「年を取ると冬がしんどいのでオーストラリアに来ている」って言って た.すごいところに住んでいる人もいるもんだ.

この夜も雨が降っていたようだ.

9. 1週間にわたる雨がやむと秋がやってきた(と思った).


Mt. Barler の丘の上と秋の空

次の日,前の晩に同じ宿だった日本人のカップルと偶然にも2回も出会った. 今度は普通に話せた.よかった.この頃からは「僕,学生なんですよ」から話 はじめることにしていた.Mt. Barkerっていう町には丘があってそこからは 360度の地平線を見ることができた.本当に平らだった.でも期待していたよ り感動しなかった.ちょっと残念.なんでだろう.地平線ってもっとすごいも のかと思ってた.自分が見たこともないようなものを見,経験したことのない ようなことを経験し,聞いたことのないような音を聞き,そうすれば人間はきっ と成長できると無邪気に信じていたけどそうじゃないのかもしれない.でもそ う考えるのは絶望的だな.生きることに目的のないことがここでも僕を苦しめ る.サンテグジュペリが言うように人間は誰かのために生きることが必要なの かな.空には羊みたいな雲がいっぱい浮かんでいてもう秋みたいだった.さわ やかな風に吹かれながら「人間の土地」を読み終わった.この時は「もう夏は 終わったんだ」と勝手に信じ込んでいた.結局それは嘘だったんだけど.

次の日はおそらくこのツアー唯一の峠越えだ.

10. このツアー唯一の峠越え


朝のガスの中を走る

朝,一面のガスの中を走った.全然暑くなくてすごく快適だ.本当に勝負は朝 起きてから朝10時までだ.この時間にどれだけ走れるかでその日が決まる.走 り始めはまだ暗い.星が消えるか消えないかの時間である.東の空が次第に明 るくなる.恐ろしくきれいだ.この日はめずらしく朝ガスが出ていたが,普通 の日は乾燥しきった朝だ.でも朝がきれいな日ほど昼間の暑さはきつい.ガス が晴れて暑さが気になりだしたころ,小さなロードハウスについた.すごく大 陸的な感じのするアメリカの写真に出てきそうなやつ.地図で見ると Kamballupと地名が書いてあって,いかにも集落がありそうな雰囲気なのに, 実際はこのロードハウス一軒だけである.Kamballupという地名に現在住んで る人はこのロードハウスの住人だけなのだ.すごういよう.「次のロードハウ スは50km先です.」みたいなことが書いてある.ここまでは日本で言うなら 「白い道」で,センターラインもない,牧場の中の道だったがここからは州道 だし,このツアー唯一の峠越えだ(といってもせいぜい200upくらいなんだけど).


牧場の中の「白い道」

Kamballupのロードハウス

Walpoleっで会ったおじさんはこの峠越えの道はロードトレイン(いっぱいつな げたトレーラーで,長いものは50mにも達するらしい)のメインルートだと言っ ていた.前方にはStirring Range国立公園の山々が見える.基本的に周囲はずっ と平野なのに,北にだけ山がどーんと見える.関東平野の筑波山をもっと極端 にした感じ.せいぜい1000mしかない山がすごく大きく見える.100mを超える 山の間の峠なのに峠の標高はわずか300mぐらいしかない.それでもこのツアー 唯一の峠である.道の名も"Chester Pass Road"「峠」である. それにしても 蝿がうっとおしい.後ろを振り返れば景色は結構きれいなのに止まると蝿がま とわりついてくるので止まりたくない.写真に撮ると蝿はあまり写らないので きれいな景色に見えるが,実際は蝿ばっかりである.さっきのロードハウスか ら峠まで大体30km.ロードハウスは既に海からだいぶ離れているので,峠まで 100upあるかないかかな.やっぱりどう考えてもそんなの峠じゃない.30kmで100upなんて.峠の場所は予想通りよくわからなかった.おそらく国立公園の事務所の辺りが峠なんだろうなと勝手に解釈しておいた.(あとで地形図を買ってみたらそこからさらに40upほどしたところが峠だった)

11. Toolbrunup Peakのこと

峠付近の国立公園の事務所にはレンジャーがいた.自転車で来たって言ったら かなりびっくりしていた(考えてみたらこの道もサイクリストのメジャールー トからはずれてるもんな).君なら3時間もあればToolbrunup Peakまで行って 帰って来れるよ,と言われた.Toolbrunup Peakはこの国立公園で2番目に高い 山で標高1052mだ.この辺りにしては驚異的な標高である.この暑さの中700up はだるかったが,展望は最高に違いないと解釈して行くことにした.途中まで はチャリで行けるし.


Toolbrunup Peakから

途中までは赤土のダートで,暑いことを除けばいたって快適な道だ.ダートは 標高400m付近まで達していた.正面に今から登る山がどーんと見えるのがかっ こいい.予想通りすごい急登で,しんどかったがあっさりピークについた.こ れまた予想通り誰にも会わなかった.この山には今僕しかいない.ピークはす ごく狭く,蝿も多くてとてもゆっくりできるような場所ではなかったが,展望 は当たり前のように最高だった.360度青い空.地平線が見える.近くに自分 より高い場所は1ヶ所しかなく,地理の教科書でしか見たことのないような地 形(準平原と残丘って言うんだっけ)が手にとるようだ.地形の空間スケールを 直感的に見積もれなくて,見ているとめまいがしてきた.こんな地形,本当に 初めて見た.僕のテント見えないかなあと探してみたがさすがに無理だった.

12. Jerramungupまでのこと

この辺は〜upという地名が多い.途中の町もOngerup.街につくたびにスーパー でヨーグルトを買って食べた.昼食はビスケットとジャムとヨーグルトでよかっ た.だって暑くて食欲なんて全くなかったもん.ひたすら真っ直ぐな道が続い ていた.ああ,さすがにこんなところは初めてだ.向こうに対向車の姿が見え てからすれ違うまでにずいぶんと時間がかかる.アメリカ縦断した人の話に出 てくる通りだった.ああ,僕は大陸を走っているんだ.

13. Esperanceまでのこと


テン場

Esperance.フランス語で「希望」という意味である.惹かれるなあ. Pembertonで会ったタカちゃんはEsperanceまで来るって言ってたっけ. Esperanceの一つ手前の町(Ravendthorpe〜人工380)からEsperanceまでは200km ぐらいでその間には一軒のロードハウスがあるだけだった.オーストラリアで 200kmというのは車で2時間の距離である(たぶんそういう計算が楽になるよう に国道の制限速度が110kmと決まっているんじゃないかと思ってしまった).

道路脇の乾いた土地の上にテントを張るのだけれど,ひび割れた砂みたいな大 地で,水をちょっとでもこぼしたら,一瞬で染み込んでしまう.朝起きても露 なんかおりているわけもない.僕のペットボトルにある水だけが僕の感じられ る水である.でも夕焼けと日暮れと星空と夜明けは最高だ.僕の半径100kmに は集落はない.時折通る車の音だけが文明である.

13. Esperanceのこと

Esperanceは久しぶりに街らしい街(と言っても人口8,500)だったのでユースに連泊した.歴史が感じられるなかなか素敵な街だった.

ユースで久しぶりに日本人に会う.Denmark以来だから6日ぶりか.やっぱりこ の国は日本人が多い.女の人2人と男の人1人.みんなワーホリで帰国近くなり ラウンド(何でか知らないけど多くのワーホリの人はビザの残りが3ヶ月くらい になると1週を始める.このことをラウンドと呼ぶ.どうでもいいけどもうちょっ とましな呼び方はなかったのか)を始めたところだった.「昨日までは日本人 僕だけだったのに何で今日はこんなに(4人)いるんだ?」と男の人が言ってい た.僕は大学生ということでここでも結構珍しがられた.でもさすがに今回は 料理を作ってくれる人はいなかった.

ここのユースには非常に信心深い(と同部屋になったオージーのKeithが言って いた)アメリカ人の老人がいた.この人はそこら辺の人を捕まえて議論を吹っ 掛けていてKeithはあんなやつ最悪だという口調で話していたが,この老人は 日本人が英語ができないのを知っているのか僕らとは海に浮かぶ船の話(ここ からは海が見えた)とかそんな話しかしなかった.賢明なことである.英語が 大してできないのにそんな宗教の議論とか吹っ掛けられるのはえらい惨めだ.

Keithはえらく健康的で早起きで,僕が起きると朝のランニングから戻ってき たところだった.年は30くらい.独身.家族なし.休みにパースから一人で車 を運転してきた.僕はこの日その辺をうろうろしようと思っていたが,Keith がドライブに行くというので連れてってもらうことにした.彼はユーカリの葉っ ぱのこととか,メルボルンの天気のこととか(彼はメルボルン出身だった),森 の火事のころろか,いろいろ教えてくれた.彼もかなり細かいタイプの人間に 思えた.

14. Esperanceを出た

雨が降っていたが2泊もした町を後にした.今から考えれば人口8,000人の町が 大都会に見えたのが不思議だ.ここからNorseman(人口2,500)までの200km の 間には小さい集落がいくつかあるが,町などない.最初の集落のroad house でおばちゃんと喋る.まったくroad houseがオアシスである.途中Esperance の空港の横を通る頃には雨はすっかりあがっていた.日本の田舎の駅みたいな 空港で,すごく新鮮だった.そりゃそうだ人口8,000人の町の空港だもの.丁 度飛行機が着いたとこみたいで,降りてきた人が迎えの車や,自分の車に乗っ て一瞬のうちに消えてしまった.本当に田舎の駅みたい.EsperanceからPerth に行くバスは週4本くらいしかないが,飛行機は毎日あるので手軽なんだろう な.それによく考えたらEsperanceからPerthまでって,東京から福岡までと同 じぐらいの距離がある.距離感がすごく変になる. オーストラリアの地図を 見るとほんのちょっとの距離でしかないのに.

15. Salmon Gumという町(村)

Esperance〜Norsemanの間に町(集落)が3つほどあるが,そのなかで最も大きい のがこの集落(人口50)である.酒場もホテルもある.町の外れの広場みたいな ところでテン張ったが,風が強くて自分が中に入っていないと飛ばされてしま う.ペグなんて効くような土地じゃあない.乾燥していて固くて,ペグをさそ うとすると土がぼろほろと壊れてしまう.ここに限らずキャンプ場(caravan park)以外ではペグなんて効かなかった.キャンプ場ではスプリンクラーとか で水を撒いているので芝生も生えているし,ペグも打てる.

どうしようもなく風が強いので荷ひもでテントをその辺の木とかに結び付けて ザツクを中に放り込んで,road houseまで飲み物とか買いに行く.キャラバン で旅しているおっさんが缶ビールをくれた.昔はゴールドラッシュで賑わった であろうこの辺はすごく寂しい感じがするところだ.日本なんかの感覚だとと ても人間の住めるところではない.Perthから水道管が延びているからな んとか生活できるようなものだ.塩湖は枯れ,塩分だけが不気味に白く湖底に 残っている.木はユーカリみたいなのしか生えていない.バスは週に2本くら いしか走らない.1番近い都会まで2000km近い.

16. Norsemanまで

Salmon GumからNorsemanまでの間は100km,集落はおろかroad houseもない. 分岐も1個所ぐらいしかない.鋪装の分岐は1個もない.右に左にくねくねし ながら延びる道路だけ.自然景観的には枯れた塩湖とか,変な岩とか,いろい ろあるみたいなんだけど,この暑さ,君が自然なんだとか考えてると見に行く 気もしない.もうどうでもいいよ.ひたすらに平らだった.一応Esperance か らNorsemanまで200kmの間にupがあるはずなんだが,当たり前のようにそんな もの感じられない.

17. Norsemanの町

この町はナラーボー平原の入り口の町で,一応,人がまともに住んでいる町は ここで終りである.「これより先水道管がない」なんて標識がある.ナラーボー 平原のroad houseとかに住んでる人とか,ホテルでは雨水をためて使っている. 一応走るのはこの町でおしまいである.ここの町唯一の宿には日本人が3人ほ どいた.居候状態のケンさん,何故かこの町に引きつけられてるヒサコさん, そして自衛隊あがり1周サイクリストのキチさんである.キチさんは北海道の 自衛隊にいたようで,知床はウトロの「オーロラファンタジー」(冬の道東で 外せないポイント)の準備をしたりと,「自衛隊は楽しかった」と言う話をし てくれた. こんなところでオーロラファンタジーの話ができるとは思わなかっ た. 彼は逆「の」の字(Darwin−Adelaide−Merbourne−Sydney−Darwin− Perth−Adelaide)にオーストラリアを1周しており,あと残すのはナラーボー 平原を突っ切ってAdelaideまで行くだけだそうである.すごい人だ. ただ米 の飯は欠かせないみたいで「僕の友達でビスケットとハンバーガーでStewart 走った人がいますよ(垣谷のこと)」と言ったら信じられないような顔をしてい た.「1日中腕立て伏せとかランニングしていれば給料もらえるんだから自衛 隊はいい職場だった」とも言っていた.世界1周に目覚めたようだったから, 今頃もどこかでバイクか自転車に乗ってることだろう.キチさんは全く英語が 喋れない人だった.「もう1晩泊ります」って一言言うのに「どう言おう」と 考えているぐらいだった. それなのに平気で自転車で1周している. すごい と思った. すごいとしか思えなかった. 言葉なんてもしかしたら大した問題 じゃないのかもしれない.僕は次の日の夕方のバスでこの町を去る予定だった ので,それまでここでゆっくりしていた. 昼飯はヒサコさんが作ってくれた. 日本人の女の人はすぐ料理してくれるからすてきです.

自転車はそのままホイールを外せばそのまま載せられるみたいだったけど,勢 いで輪行したら,ただで載せてくれた.本当は$15とかかかるみたいだったけ ど.バスに乗るとじきに日がくれてきた.冷房の効いたバスの中から見るオー ストラリアの自然は,非常に他人事で,美しいけど美しいだけだった.時速 100kmで走ると2時間で200km走ってしまう,当たり前だけど.いつのまにか眠 りに落ちていて,気が付いたらSouth Australiaに入っていて,ナラーボー平 原は終わっていた.

やっぱり平らな国では自転車は役に立たないのかなあなんて考えていた… (完)


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