過ぎ去った日々のこと

この前、骨董市で蓋のついたお椀を買った。その時包んでもらった新聞紙が昭 和36年12月18日の日経新聞だった。新聞を読んでみると、その頃の日本が今と あまり変わらないような気もするし、今とは随分違う気もする。もう黄色くなっ てしまった新聞を読みながらそんなことを考えてた。でも読んでたら、今の日 本は確実に昭和36年の日本より住みやすくなっているような気がした。そうい うことを実感したのは初めてだったのでちょっと感激。

外は雷。昔には戻れない。人間の英知は素晴らしいのだよ。人生は楽しい。生 きているってこんなに楽しくて素敵なことなんだって思える時を大事にしたい。 生きてたらたまには疲れるし、嬉しくてしょうがないこともあるよね。嬉しかっ たときの思い出を大切に。そして未来は輝いて。

原因と結果って難しい。ニワトリとタマゴ。

2003.8.5


新しい本棚が来て、机の上の本をだいぶ片付けた。机が広いってのは素晴らし い。

家のすぐ前に神社があるんだけど、じっくり歩いてみるとすごくいいねえ。何 でこういう身近なものにあんまり気が付かなかったのだろう。灯台もと暗し。 歩くところがいっぱいある。木もいっぱいある。花もいっぱい咲いている。お 茶飲むところぐらいあったら、最高なのになあ、絶対入り浸る自信がある。

2003.7.12


昔から思うことだけど人生って短い。っていうか僕が生きられる人生はなんて 限られているんだろうということ。僕は今の生き方が好きだし、他人の生き方 を妬んでもいないけど、それでももっともっといろんな人生を歩きたい。100 回か50回ぐらい生きたら満足できるかな。人生は1度きりなんだって。

どんな人生のどんな瞬間にもその人だけの喜びや悲しみや感動がある。こうやっ てパソコンに向かっているときの喜びもあれば、山の中で寒い思いをしている ときの喜びもある。温泉の喜びもあれば、雨でずぶぬれになっている喜びもあ る。

そんないろんな喜びを。感動を。

2003.7.10


友達が1ヶ月くらい前に事故で死んでいた、ということをつい昨日知った。友 達、って言っても最近はとんと御無沙汰していて、最後に会ったのは2年くら い前だし、最近は数ヶ月に一回メールや手紙を出すだけだったのだけど。それ でもショックだということには変わりない。

逝ってしまったということももちろん悲しいのだけど、それを僕が1ヶ月も知 らなかったという事実に愕然としてしまった。よく考えてみれば、共通の知り 合いもいないし、数ヶ月に1回連絡する程度の間柄なのだから、しょうがない のかもしれないけど。

いろいろ考えているうちに、人と人との関係について少しづつわかり始めた。 僕はその友達と最近はたまにしか連絡をとっていなかったにも関わらず、死ん でしまったという事実に衝撃を受けた。これはつまり、人は本当にそこにいる ことが大事なのではなく、世の中のどこかで何かをやっていて、またその話を いつか僕にしてくれる、いうことが大事なのではないかと。いくら会わなくたっ て、生きていればいつかは会える。そして話ができる。それが大事なのかな、 と。

死んだ人が他の人の心の中で生きていくっていうのは、だからあり得る話だな。 とも思う。今しばらくは会えなくても、いつかどこかで会えるじゃない。あの 世かもしれないけど。少なくとも「会えない」とは誰にも言えない。その日まで 心の中にいればいいじゃない。と、そんなことを考えた。

2003.7.4


絶対的な価値判断の基準を持ちたい、と常々思う。僕の幸せは僕が決める。足 るを知る。何が自分に必要なのか。自分で欲しいものは自分で決める。他人の 生活や他人が持っているものを基準にして物を考えるのをやめる。そして自由 に生きよう。

本当の幸せは実は身近にあったりして。ご飯のおいしさ。布団の暖かさ。風呂 の気持ちよさ。本当に楽しいことを。本当の幸せを。

2003.7.3


最近、コーヒーもなかなか素敵だと思い始めた。世界中の人に愛されているん だから、まあ当然といえば当然なんだけど。もちろん僕はお茶の信奉者なので、 そう簡単にお茶を捨てるわけにはいかないんだけど、たまにはコーヒーもいい かなという程度。お茶のように奥深い味の微妙な差を味わう境地にはまだまだ 達していません。コーヒー飲んでも、全部同じ味に思えるし。

2003.7.1


自分は約束を守る人間になろうとか思うのはたやすい.でも例えば世の中の人 が誰一人として約束なんか守らないような時に自分はやっぱり約束を守れる人 間になれるかどうかは非常に怪しい.自分の中で自分から純粋に出てきたよう な自分らしさはどれくらいあるのだろうか.僕は自分が欲しい.

2003.3.18


人とのつながりは大きな財産だと思ってきた.しかしこの考えの何と打算的な ことか.自分の将来の財産となるから人と付き合うなんて.僕は知り合いや友 達をなくすのを心からいつもいつも恐れていた.でもそうじゃない人もいる. 友達に言われた言葉の一つに「人と人はあるときは求め合って近づくけど,そ うじゃなくなったら離れていくのが自然」というのがあった.そうやって自分 の思うままに人を求めたり失ったりする方がはるかに純粋だなあと,そう思う こともある.

2003.3.16


友達からのメールに、「自分に考えがあって行動をとっているのであれば,少々 きついことを言われても揺るがないでいるくらいでないと」とあった。妙に納 得。どうも自分は、今まで「人に意見できるくらい自分は偉くない」とか思っ てたけど、そうじゃないんだ。人に自分の意見をぶつけることってきっとすご く大事なんだと思える一言だった。

2002.8.13


昨日の日中はあまりに暑くて夏の批判ばっかりが頭の中をまわっていたが、夜、 銭湯から帰る途中、神社の椅子に腰かけてぼーっとしながら、虫の声や葉っぱ がたてる風の音を聞いていたら、夏の悪口ばっかり言うのもひどいという気に なってきた。

葉っぱがたてる風の音というのは野宿の思い出と非常に密接に関わっているみ たいで、すごく懐かしくなってきた。ああこういう音を忘れずに生きて行こう。

2002.8.12


人を感動させるのは,完成したものではなくて過程であるという思いを強くし ている.僕が欲しいのも結果ではなく過程である.人生そのものが,結果では なく,過程を楽しむものなんだから,ねえ.これ以上世の中に求めるものがあ る?? 今そこにある,結果としてのものではなく,その向こう側にある全ての 過程を見よう.そういう人間になろう.

2002.5.31


日曜日の夕方、すごい夕立のあと、太陽が光輝いていた。まだ雨は降り注いでい るのに太陽の光は金色だった。太陽を背にすると山のこっち側に虹が見えた。 うーん水蒸気。

2002.5.28


鉛筆削りのこと。

鉛筆削りが削れなくなった。小さい鉛筆削り.ほんの3cm程の掌に乗るような 小さな奴。削りカスを入れるところも付いてなくて,空缶の上で削らなくちゃ いけないやつ.アルミでできてるのかな.赤い色が塗ってある.削れなくなっ た,っていうのはどういうことかと言うと,鉛筆の先を尖らせようとすると, 芯がポキっと折れてしまう.

きっと刃が切れなくなったのだろうと思って,替えの刃を買って来た.古い刃 を見てみると,芯に当たるところがちょっとこぼれているようにも見える.替 えの刃を付けたのはいいのだけど,症状は改善されない.いろいろ考えたのて, 仮説を2つ立てた.

どっちにしろ,情報が少なくて原因を特定できていない.こんな簡単な道具な のに,設計した人の英知が詰まってるんだなと改めて実感した.情報どこかに 落ちていないか.鉛筆削りの手入れの仕方,みたいな.ここが狂ってると芯が 折れますよ,みたいな.

あーしかし,鉛筆削りがこんな難しい道具なら,ナイフ一本持ってる方がどん だけかいいかわからないね.きっとそうだ.人間の英知よ,ごめん.

2002.3.25


自分をばらばらに解析して、すごくすごく客観的に見てみたい。ってこういう のを自意識過剰というのか。いずれにせよ、分析しないとおかしくなりそう。 自分の行動の裏に何があるのか本当のところを見てみたい。自分に究極として 問いたい一言は「だから何がしたいの?」。修行と言うのはこの問いを問い続 けることなのだろうか。それともこれは世俗的な問いとでも言うのだろうか。 修行って言うのはもっともっと高尚なもの??自分が見えない。なんだか昔の日 記を読み返すと、結局今と本質的に悩みは変わっていない。人間ってこんなに も成長しないものだろうか。

2002.3.24


本当のことなんてない、って思える時がある。まあこれはごく普通の発想でだ からこそパスカルは「我思うゆえに我あり」なんだろうけど。本当のことはな いんじゃなくてあるんだけどわからないだけだ、人類がまだそこに到達してい ないだけだと考えることにしたほうが精神的に救われる気がする。本当のこと が中ったらさ、だって生きててもしょうがないじゃない、考えてもしょうがな いじゃない、ねえ。

それにしてもいつもこういう議論を止めてふと現実に戻って来る時に感じる ギャップはなんなんだろうね。昔友達が言った一言「それでもご飯はおいしい し」っていうのが極めてぴったりとその感情を示しているように思える。とき どきふと現実を感じる瞬間っていうのは、おいしいご飯を食べた時だったり、 春を思わせるような陽気の中で桜のつぼみなんか見つけて、暖かい風を感じて いる時だったり、朝布団の中で感じる温もりだったりする。

そういうふとした現実って「生きててよかった」と心から思わせる何かがある ね、きっと。

2002.3.16


情報と思考について。あまりに多くの情報を得ると思考する余地がなくなるの か。それとも情報があればあるほど考えることができるのだろうか。一人の人 間に与えられた時間は無限ではない。あまりに多くの情報に接すると自分で考 える暇がなくなるのか。過去の偉大な思想家は新聞を読んだであろうか。テレ ビのニュースを見たであろうか。インターネットなどというものを使ったのだ ろうか。

人の意見を最もらしく、なるほど、なるほどと言って聞くのは楽だが、自分で 考えることにはならない。それどころか自分で考える時間を失っている。人の 考えを聞く時間も大事だが時には周りから自分を遮断して自分の殻に入って考 えなければいけないのかもしれない。情報化社会を生きるとはそういうことか。

表面的な感動はいらない。それよりも自分で見付ける何かが欲しい。「自発的」 という言葉の意味についてじっくりと考えてみたい。自分と社会の関係を知る 前に自分自信をよくみつめたい。

2001.12.31


そう、眠い。冬の夜は体温がぐっと下がってるに違いない。

美しくありたい。美しいものを見たい。美しい人に会いたい。そりゃあ誰だって。

「美しい」と「好き」の違いがよくわからない。「好き」の方が主観的?でも 「美しい」だって、たいがい主観的。

好きでありたい。好きなものを見たい。好きな人に会いたい。

あまり意味が通らないなあ。僕は「美しい」と思ったものは好きになるし、好 きなものは美しい。でもそれがそもそもあまりに主観的な僕の考えなのか。も 一つ「楽しい」ってのもある。これも僕個人的な文脈では前の二つとあんまし 変わらないような気がする。変わるかな。

楽しくありたい。楽しいものをみたい。楽しい人に会いたい。

個人的にはどれも真だ。僕はどうも孤独との付き合いかたが下手なんじゃない だろうか。さようなら、いろんなものよ。

2001.12.23


冬に至った。今日も夕焼けがきれいだった。銭湯に行けば今日は柚子の風呂に 入れるはずだが、気が付いたら習慣でシャワーを浴びてしまっていた。ああ習 慣とは恐ろしいものよ。

窓から見える学校の木の葉っぱもいつの間にか散ってしまった。窓から見える 景色は毎日少しづつ変わっているはずなのに景色が変わったのに気づくのはい つも変わってから大部たってしまってから。観察力が足りないなあ。日々のさ さいな変化をどれだけ認識しているかで、人間が問われると思う。そういう問 いに耐えられる人間に僕はなりたい。

こうやって学校の庭を眺めていると東京って言ったって結構静かなもんじゃな いかと思う2001年の暮。

2001.12.22


夜布団に入ってから布団が温まるまでの時間が何とも言えず不思議.日当たり が悪いアパートに住んでいるせいか,あまり冬にはちゃんと布団が干せない. だからそんなにふかふかの布団ではないのだけれどそれでもやっぱり気持言い. 夜寝る時は布団に入った瞬間に寒さを感じるが,朝起きるときは布団が暖かく て暖かくてとても外に出る気持にはなれない.温度計を見ても大して寒いわけ でもないのになあ.

大学のときの友達と話したりしてると,たいがいみんな「寒さに弱く」なって いる.ある友達なんかその耐寒性の低下の原因を食生活が変わったせいにして いたけれど.彼が言うには「肉を食べるようになると耐寒性が低下する」と. これには多くの反論が寄せられた.イヌイットは肉ばっかり食べてるじゃない かとかね.確かに菜食主義は暑いインドで発達した.彼の仮説はまるで間違っ ているかもしれない.

多分彼が言いたかったのは肉も満足に食べれなかった,そして暖房も満足にな かった学生時代のハングリーさみたいなものは全てなくしてしまったよ,とそ ういうことなのかもしれない.そう考えると彼が失ったものはあまりに大きかっ たのではないか.みんなそれを失うのが恐くないのか.シャワーにも満足に行 けずに,洗面所の冷たい水で髪の毛を洗っていた思い出はどこに行ったのかな.

僕はどこに行くのだろう.幸せってなんだろう.夜一人で冷たい布団の中で考 えてると涙が出て来る.そんな今日は僕の26回目の誕生日.

2001.12.19


シャワーを浴びて研究室に戻って来るとき,随分と寒いと感じるようになった. 東京だからいいようなものの,北海道だったらどうなってるんだろうか.北海 道とは言わなくても寒いところだったら髪の毛が帰って来る間に凍り付いてる んだろうな.なんてことを考えていたら冬の北海道をツアーしたことを懐かし く思い出した.

先日,サイクリング部のOB会があって,昔北海道に一緒に行ったやつなんかと, 久しぶりに懐かしくそんな話をした.彼は今山梨県の山中湖のほとり,標高 1000mにもなるところに住んでいて,すでに夜は氷点下10度ぐらいになったり するらしい.昔北海道に行ったときは弟子屈で氷点下27度というのを体験した. 朝,テントから這い出して寒いなと思いつつ温度計を見たらそんな気温だった.

野沢温泉にスキーに行ったときも,風呂からの帰り,一瞬でタオルが凍ってい たっけなあなんてことも思い出した.寒いところか.寒いところね.東京がそ こまで寒くなくてちょっぴり物足りなかったり,それでも朝起きるのがつらかっ たり,そんな冬の毎日です.こうして21世紀最初の年も終って行く.あと少し で僕の誕生日です.年も一つ増える.ああ,年末.そしてこんなにも後ろ向き な僕.

本当に楽しいことを.

2001.12.16


冬になると夕焼けがきれい.今日もすごくね.遠くに秩父の山が見えて,「あ, 東京でも山が見えるんだ」と改めて実感できる夕焼けだった.昔,学部生の頃 ゼミの途中に見えたきれいな夕焼けを思い出す.あれも冬だったなあ,と.そ のことを友達に話したら「空気が汚いところほど夕焼けのグラデーションがき れいに見えるんだよ」と言われてちょっとショックだった.その当時その友達 は愛媛県のまあちょっと山の方に住んでいたんだよね.

言われてみればツアー中に見た夕焼けでそれほどきれいだったというのはあま り印象に残っていない.瀬戸内海の塩飽諸島の本島で見た夕焼けも,小笠原で 見た夕焼けも,そこまでのものであったという印象はあまりない.どちらかと いうと都会で見る夕焼けの方がその美しさが印象に残っている.それとも夕焼 けの絶対的な美しさというのはどこでもさほど変わらずに,都会では周りが汚 い分だけきれいに見えるのかな.

あっ,でもオーストラリアで出会った夕焼けはものすごくきれいだったぞ.そ う考えると空気が乾いてる方がきれいに見えるという法則があるのかもしれな い.ちょっと説得力があるな.誰かこういうの知ってたら教えて.

2001.12.14


先日,大学の学部時代から使っているカップを割ってしまった.もともとは蓋 付,茶こし付だったから研究室でお茶を飲むのに使っていた.今の研究室では 急須やポットが使えるから全くそういう機能は使っていなかったのだが.どち らにせよ,お気に入りのカップを割ってしまったというのはかなり悲しい出来 事だ.

とりあえず研究室にあった誰も使っていない茶色のカップを借りて使っている のだがいろいろと発見したことがある.外から見る分には渋くていい感じの茶 色のカップもお茶を入れてみるとお茶の色がよくわからなくてお茶がおいしい 気がしない.物を食べるとき,飲むときに目で見る情報というのがいかに大事 かを痛切に感じた.早く白いいいカップを見付けて持って来ようっと.

「師走」っていうくらいだから本当に忙しいね.まあ体が壊れないことを願っ ているよ.

2001.12.13


最近朝に起きるのがしんどくなってきたので、しょうもない仮説を立ててみた。 きっと、冬になると人間は夏よりもいっぱい眠らなければいけないようにでき ているに違いない。っていう仮説。夏の朝はあんなに寝ているのが嫌ですぐに 飛び起きるのに冬の朝はなかなか飛び起きることができない。これはきっと人間の〜だがそうできているに違いないとふと思ったのである。

体温が上がらなければうまく活動できないのだから、この仮説はそんなに間違っ ていないような気がする。大体動物って言うのは冬眠するじゃないか。人間も 例外ではないに違いない。だってねえ。

そんなことを思いながら、寝るときぐらいは冷房や暖房などとは無縁な生活を しようと心に決めた。できるだけ逆らわないで生きて行きたい。そういう幸せ はかなりいいと個人的には思う。

2001.11.28


すごく久しぶりの更新。誰に書いてるわけでもないんだけどね。

先日、花咲き村で竹を切ってきた.山がきれいだとか紅葉がきれいだとかそん なことは置いておいても,こういう仕事は楽しいんだな.文明と自然の接点を 感じることができる.そこに生えてる竹はもうずっと前からその先祖がそこに 生えてた竹で,おそらく文明というか人間生活とはあまり関係のないもの.そ の一方で竹を切る鋸は文明そのもの.履いている地下足袋も工業製品.何でこ の鋸がこの竹を切る運命になったのだろう.この鉄ははるか遠く南半球から運 ばれて来たものかも知れない.この地下足袋の底のゴムはこの竹を蹴ることに 使われるなんて想像もできなかったんだろうな.

休みの日ぐらいは思いっきり体を動かして生きていることを確認したい.世の 中があまりに複雑になってきて自分の行動が世の中とどういう風に関わってい るのかが見えなくなっている時だからこそ,何か少しでもわかりやすいことを したい.竹を1本切ったことによって確実に自分が地球と関わっていることを 実感できるから.

ああ自分は何とたくさんの人や物に囲まれて癒されているのだろうと心から思 う.ありがとう.

2001.11.25


朝,朝日堂でパンを買って「袋いらないです」って言ったら,新装のお祝いに もらったというペットボトルのジュースをもらった.幸せ.ピカチューのシー ルもついていたし.こういう出来事がお客の心をつかむんだよねえと僕は思う.

2001.11.7


何のために生きてるのかって,そりゃあこの風を感じるために生きているんだ よっていうような風に久しぶりに出会った.日々余裕の無い生活を送っている と,こういう風に出会った喜びが大きい.今年も折角冬がやって来たのに,と てもそんなことを楽しんでいる余裕などない間に冬はどこかに行ってしまうの だろうか.この冬に会うために一年間生きて来たようなものなのにね.

何のために生きているのかって,そりゃあ,寒い日に山の中の焚火の上で一杯 のお茶を飲むために生きているんだよ,と声を大にして言いたい最近.

人生,あまりに短すぎて,やりたいことのうちほんの少ししか実現できないの ではないだろうかと思う最近.

そんな最近が別に嫌いなわけではなく,ただ単に風を感じてうれしかっただけ.

2001.11.6


家に大きなディスプレイといい音響装置が欲しいかという話を先生と友達とし た.僕は要らない.そんなお金があったら毎週でも映画館に行く.

どっちの方が好きかというのはまあ個人の好みかもしれないけど,僕は家でビ デオを見るよりは映画館で映画を見たいし,家で風呂に入るよりは銭湯で風呂 に入りたい.まあだから家にはテレビも風呂もいらないと(今のところは)思っ てる.

まあでも不思議なもので,全部が全部そうかというとそうではなくて,料理は 自分でしたいから,台所は欲しい,というようなこともある.趣味の問題なん だね.

2001.10.20


寒くなると,人間は幸せになるんじゃないかと思う.少なくとも個人的には毎 日が少しずつ寒くなる今の季節は幸せがいっぱいだ.寒い夜に布団にくるまっ ているといろんな思い出が頭をよぎり,涙が出てくることもあるけど,それで も幸せだ.寒い夜に廃村の外れで星を見ながら眠りについた夜のこと.友達の 家で寒さにふるえながら喋ってたこと.

寒い夜に飲む一杯のお茶が人生をどれだけ幸せにしてくれることか.どれだけ 多くのものを僕にくれるのか.一人下宿で震えながら飲むお茶もおいしいし, 誰かと喋りながら飲むお茶も幸せいっぱいだ.

凍えそうになりながら,雪の上のテント中で氷点下の夜,寝袋に入るときの幸 せに勝るものっていうのはなかなかないのじゃないだろうかと僕は思う.

2001.10.18


久しぶりに山に行ってた.

山を登る前の日に麓をうろうろしていたら,地元の人達の飲み会に巻き込まれ た.30歳から40歳くらいの人達だろうか.酔っ払ってたからいろいろと口の悪 いことを喋ってたが,一つだけ印象に残った言葉がある.「お前ら,自然保護 団体にだけは入るなよ」と最後に言っていたことである.何が彼らにそう思わ せるのか.

もしかしたら,「自然保護団体」に対する失望のようなものがその声の奥にあ るのかもしれない,と勝手に想像してみた.それにしても「自然保護団体」と 一言で論じてしまっていることがちょっと悲しかった.いろいろな団体がある と思うよ,僕は.そうやって一言で括ってしまうと,そこで思考停止してしまっ て,自らの首をしめることになりはしないかと思う.

僕が常々思うのは,都会の人は田舎のことをあまりに知らなすぎるし,田舎の 人は都会のことをあまりに知らなすぎる.お互いのことを知らないということ はとてもよくないことと思う.

昔大学1回の頃,自転車で南紀を旅行している時,夜村の中で寝ていたら現地 のヤンキー高校生がきて、彼らといろいろ話をしたことを思い出した.奈良の 南の方の山の中の村での夜だった.何で僕がこんな山の中を自転車で走ってい るのかという話から,僕が東京の近くで育ったというとすごく羨ましそうな顔 をしたりとか,いろんなことを喋ってて,結局,「都会の人は田舎に行きたが るし,田舎の人は都会に行きたがるんだ」ということになった.

それでいいではないか.それだけの好奇心があれば人のことをもっと理解でき るのではないか.もっとみんな旅に出て,いろんな町で山で村で暮らしてみれ ばいいじゃないか.そうすればみんな自分のことだけ考えてるんじゃなくて, 日本のことを,いや世界のことを考えるようになるんじゃないかな.

そうして日本がちょっとずつ良くなっていくことを願ってやまない.そして僕 はもっともっと人の意見に耳を傾けられる素直な人間になれるように努力しよ う.

2001.10.17


自分が一生の間にできることってどれくらいあるのだろうとふと考えることが ある.人間の歴史の中で自分という一人の存在を見るとほんの小さな存在でし かない.人間がこれまで築き上げてきた物に比べたら僕ができることなんてた かが知れてる.それでも欲張りだからあれもしたいし,これもしたい.まだ見 てない風景を見たいし,まだ会ってない人に会いたいし,まだ食べたことのな いものを食べたい.でもこれまで体験してきた風景や,これまで僕にいろんな ものをくれた人達,今まで食べて来たもの達のことも忘れたくないし,大事に したい.本当に自分は欲張りだ.

今までは「今まで」の部分が小さくて,「これから」の部分が大きかったけど, ここ数年は「今まで」の部分もすごく大事に思えるようになってきた.それで もやっぱり新しいものに出会いたいという気持は変わらないけれど.「ただ前 だけを見て進む」というような気持にはなかなかなれない.

過去を全て捨ててしまえたら楽なのかなと思うこともある.常に後ろを見ずに 前だけを見るとかね.過去を捨てるってどういうことなんだろうか.

2001.10.13


お茶の話なんだけど,日本茶や中国のお茶は何回も入れることができるのに紅 茶は1回しかいれないと言われる.なんでなんだろう.紅茶だってもとは中国 のお茶なのにね.発酵度によって違うのかな.でも半発酵のウ−ロン茶だって 何回もいれるんだよね.全発酵の紅茶だけが1回しか駄目な理由はないはず.

そこでふと思ったのが葉っぱの大きさのこと.普通ヨ−ロッパ風の紅茶ってい うのは何でか知らないけどすごく細かい葉っぱである.こんなに砕かなくても いいのにと思うぐらい.特にセイロンのお茶とかBOPばっか.そんなに細かい から1回しか出ないのではないだろうかとうこと.

じゃあ,細かくない紅茶だったら大丈夫なのじゃないかなあと思ってみた.特 にダ−ジリンの春摘みなんか本当に紅茶なんかいと思えるほど緑茶っぽい.し かも葉っぱはちゃんとOP(僕が買ったお茶にはOPの前にすごくごたごたといっ ぱい書いてあったけど,よく覚えてない)だった.そこで春摘みのダ−ジリン で2煎目を試してみた.ちょこっと味が落ちるような気がするけど,飲めるよ, これは.1回なんかで捨てることなかったなあ.

そもそもBOPみたいに細かくお茶っ葉を砕く理由がよくわからない.ミルクティ −にはいいのかな.でも僕ミルクティ−って好きじゃないし.だから大きな葉っ ぱのお茶ばっかり買うことにしよう.お茶はじっくりと出すのがいいよ,きっと.

2001.10.11


先週,九州に行っていた.記憶がある限り九州に行ったのは2回目.大学のと き四国にはあんなに行きまくっていたのに九州にはほとんど行かなかった.な ぜだろうな.まあ四国の方が近いには近いんだけど.

学会などの学校の用事だったから当然飛行機だったのだけど,速い速い.びっ くり.前に青森に行ったときもあまりの速さにびっくりしたけど,九州まで1 時間半なんて信じがたい速さだね.

おまけにかなり多忙な中での訪問だったので,山にも田舎にも行けなかった. 本当に実感のない移動だった.思えば,飛行機で日帰りするよりも自転車で1 泊の旅行に出た方がずっと遠くに来た気がする.

やっぱり自分の足でかせぐ距離にかなうものはないかもしれない.思いっきり 自転車で走ってみたいなあ.

2001.10.9


秋から冬にかけてはきれいな夕焼け。きれいな夕焼けで思い出すのは、大学4 回生のとき、ストーブがついた寒いゼミ室から見た西の空に沈んで行く夕陽。 ゼミなんてどうでもよくなった。その瞬間に、次の年の年賀状にはこの夕焼け を書こうと心に決めた。

愛媛に住んでる友達に「大気が汚れている程夕焼けのグラデーションがきれい に見える」と言われてちょっとショックだったけど、それでもきれいな夕焼け は好き。いろんなところで見た夕焼けがそれぞれにいろんな思い出と結び付い ている。生きててよかったと思える瞬間だね。

2001.9.25


空の郵便受け、鳴らない電話、そういうものが人を死に向かわせるかもしれな い、という話を友達としたことがある。もし、そのとき郵便受けが空でなかっ たらそんなに人生の虚しさを味わずに済んだかもしれないのに、この世で一人 でないということを確認できたかもしれないのに。もしそのとき電話が鳴って いれば、悲しみの奥深くに沈み込んだまま帰って来れないなんてことはなかっ たかもしれないのに。

人はなんて自分勝手なんだろうね。自分のことしか考えれないんだろうね。そ んな自分が本当につくづく嫌になる。郵便受けなんか見ないで空ばかり見上げ てればいいのに、秋を感じていればいいのに。

2001.9.21


先日,久しぶりに自転車で林道(といっても舗装だが)に行って来た.結果は無 惨にも敗北だったけど.道路が完全になくなってた.あそこまでひどい道路崩 壊は初めて見た.今日はそのことが書きたいんじゃなくて,その後に入った温 泉の話.

久しぶりに林道のあと入った温泉は格別だった.こんなにも幸せなものが世の 中にあったのだろうかということに驚いた.昔,長いツアー中に温泉に入る幸 せというのはこういうことだったのだろうかと久しぶりに思い出した気がする.

最近,車で温泉に行くことなんかが結構あるんだけど,そんなの全く話になら ないということがわかった.本当の幸せはどう考えても自転車のあとの温泉の 方にある.ああ,本当の幸せ.

2001.9.21


鉛筆を削る瞬間.ちょっとは幸せかもしれない.とがった鉛筆見てるとちょっ とだけ気持いい.色鉛筆もあんまり尖らせられないけど,すごく丸くなってし まった色鉛筆を削って使えるようにするのはこれまた,楽しい.

シャーペンではこうはいかないだろう.あの,カチッという音のどこに喜びが あるというのか.そりゃあ時間がないときにはいいかもしれない.余計な木を 切らなくていいかもしれない.でも鉛筆削る楽しさはここにはない.

鉛筆で思い出したのだけど,昔,福音 館書店の「 いっぽんの鉛筆のむこうに」という絵本を読んだことを思い出した.この本 はすごい.鉛筆のために黒鉛を掘る人の話から始まって,鉛筆用の木を切る人, その木を日本まで運ぶコンテナ船のコック,そして最後は日本の鉛筆工場のお ばさんの話まで,いろんな人のことが書いてある.

今,鉛筆を削りながら,この鉛筆はどこから来たのだろうかと考えていたらす ごい不思議な気分になってきた.世の中で僕はなんて小さな存在なのだろう.

2001.9.13


好きなもの.秋の空の色.冬の空の色.夏の空の色.春の空の色.晴れ渡った 空の色.台風のときの空の色.雨のときの空の色.雲が迫って来る空の色.霧 が晴れるときの空の色.夕焼けに染まった空の色.朝焼けに染まった空の色. 雪が舞うときの空の色.吹雪のときの空の色.

風とか,雨とか,空とか,どうやっても憎みようもないものが世の中にはあ る.っていうか,心から何かを憎いと思ったことなんてない.それをもしかし たら,人は無関心とか無感動とか言うのかも知れない.権力に飼い慣らされて いると言うのかもしれない.批判精神がないと言うのかもしれない.世の中を 変えようとする意志に乏しいと言うのかもしれない.

人は考え続けなければいけないと心のどこかで思っている.その一方でこの僕 が生きている世界や現実がたまらなく美しいと思えることがある.何も考えな くても空の青さは変わらない.いや,ちょっとぐらいは変わるかもしれない. でも変わった空の色が美しくないとは誰にも断言できない.

本当に大事なものは何なのだろう.


幸せな世界ってどんな世界なんだろうか.みんなが世の中のことを何も考えな くても世の中はうまく動いていて,自分は自分のことや自分の大事な人のこと だけを考えて行けるような世界が幸福ななんだろうか.何も考えなくても必要 な食糧は手に入り,住むところにも着るものにも困らないような世界.それが 幸せな世界なのだろうか.

今の世の中はひどい世の中だとか,悪いことがいっぱいあるだとか,不平等な 社会だとか言われるけど,もしそれらの問題が全て解決されたならそれは幸せ な社会なのだろうか.そういう世の中になったとして,人間は何のために生き て行けばいいのだろうか.そういうことを考えずに今の世の中を「良く」しよ うとする態度は,捨てることを考えずにモノを作り続ける行為に似て無責任な 態度ではないのだろうか.

人間は,少しでも豊かになりたい,少しでも幸せな社会にしたいと願っていろ いろなことを続けてきた.日本の戦後が否定されたように,そのような態度が 否定される時が来るのではないかと少し僕は恐れている.

2001.9.11


普通,その辺で売っている干し椎茸は下の部分がもう切り取られた状態で売っ ている(下のところ何て言うんだっけ?).ところがこの前岩手で買ってきた干 し椎茸は,ものすごく安かった上に,下の部分までちゃんとついてきた.普通 に料理するときには上の笠のところだけを使ったんだけど,何とか下のところ 使えないかなと思って,とっておいた.

どうも周囲の話によると下の部分は「堅い」らしい.だったら軟らかくなるま で煮てやろう,ということで,かなりゆっくりじっくりと煮込んで,佃煮みた いに濃い味付けにしてみた.全く普通の佃煮みたいに食べれる.ちょっと歯ご たえもあって,野菜と言うより肉を食べてる食感に近かった.おいしい,おい しい.これからは椎茸の下のところも捨てなくてすみそう.

2001.9.7


蚊取線香ついで(?)に蝿取紙の話.今年の夏前に台所でショウジョウバエが大 量発生した.蚊取線香をたいてみたけど,当然のように効き目はなし.蝿取紙 を探したんだけど,なかなか近くの薬局には売ってなかった.どうして売って ないのだか理解に苦しんだけど,売っていないものはしょうがない.もうちょっ と進化したようなのは売ってたんだけど,僕が欲しかったのは天井からぶら下 げる「蝿取リボン」というやつ.どうしてこういう,消えるはずもないような ものが店から消えて行くのだろう?

さんざん探した挙げ句,根津の裏通りにある間口一間ほどの雑貨屋で見付けた. あのときは嬉しかった.台所の天井にぶら下げたら,少しずつではあるが,蝿 がかかりはじめた.めでたしめでたし.安いんだよ,蝿取紙って.5つ入って 300円.

2001.9.6


蚊取線香の匂い,って夏を感じる.夏が始まる時にはこれから蚊取線香の匂い が匂げる季節になるんだ,とわくわくしていたのに,今の自分は秋の風を心か ら歓迎している.ふと蚊取線香のことを考えた.今年の夏,僕は蚊取線香の匂 いを感じて幸せになれたことがあっただろうか?大きな裏切りをしてしまった ような気分だ.

以前友達と瀬戸内海の小さな島に行ったとき,神社の木の下を一夜の宿とした のだけど,あまりに蚊が多くて小さなお店に蚊取線香を買いに行った.試しに つけてみるとその島の蚊は蚊取線香に対する耐性がまったくないのか,どんど んと落ちて来て,まあいい結果ではあったんだけど,それはそれでちょっと困っ た.というのも夕ご飯の中にどんどんと蚊が落ちて来てしまうからだ.

蚊取線香で,そんなことをちょっと思い出した.

2001.9.5


町を歩いている人を無作為に選んで,その人が500円玉を持っている確率って どれくらいなのだろう.持っている1000円以下の端数に関してはランダムだと いう仮定をしてみると,どうなるだろう.1/2 ?? でも500円以下の買物をして も500円玉があるにも関わらず,面倒くさがって千円札を出してしまう人もい るだろうしなあ.そうすると1/2より少し高いぐらいか.よく考えると反対に 千円で500円以下の買物をしたときに必ずしもお釣りに500円玉があるとは限ら ない.すると,ますます複雑なことに...

直観では1/2より少し少ないぐらいではないかと思うのだけどどうだろう.

2001.9.3


一日に人は何回マウスをクリックするのだろうかと、昔思ったことがあった。 またちょっとそれについて考えたので、はてなに聞いてみたけれど、まだ答え が返って来ない。きっと見つからないんだろうな。

日常的に計算機を使っている人の間でも個人差が結構ありそうだな。どのよう な作業をしている時に一番高い頻度でクリックをするのだろうか。グラフィッ ク系のアプリケーションで画像ファイルをいじっているときなんかだろうか、 やっぱり。文章を書いているときは基本的にマウスなんて使わないもんね。

ずっとクリックをし続けると腕がすごく疲れませんか? ほんの何回かだけクリッ クするぐらいならたいしたことはないのだけど、ずっと高い頻度でクリックし 続けると異常にしんどいんだよね。

はてなにも聞いてるんだけど、誰かこういうことを真剣に調べた結果について の情報を持ってたら教えて欲しいな、と思う。

2001.9.1


世界が狭いのか,自分が狭い世界に生きているのか時々わからなくなる.どっ ちもどっちなのだろう.最近誰かに会うと,友達の友達だったりすることが多々 ある.こういうときに決って出るせりふが,「世間って狭いねえ」である.で もよく考えると自分が狭い世界に生きているだけな気もする.

世界の人口は50億,なんてことを考えるまでもなく,日本の人口だけでも1億 以上.そのうち僕が喋ったことのある人なんてせいぜい1000人もいればいい方 だなあ,と思う.この数字が果して合ってるのかどうかははなはだ疑問ではあ るが.まあ1000人だとしても僕の知ってる日本人は日本人の10万分の1程度で しかない.だからやっぱり僕は狭い世界に住んでるんだなあ.僕のことも僕の 友達のことも誰もしらないようなコミュニティーが世の中にはまだまだある, ということか.

2001.8.30


とりとめもない話が好き.友達からもらうメールとか手紙とかなんだか支離滅 裂に見えることもあるけど,それがいいところかもしれない.プライベートな 人間関係の特権というか.その行間を読むのが楽しい.それが友達ということ なのか.人間が物事を考える道筋っていうのはこういった一見,支離滅裂な物 の組み立ての中にあるのではないだろうか.人の迷いが自分の中で光になるこ ともあるのだよ.

酔っ払った友達からかかってくる電話が好き,という友達がいる.「幸せな電 話」だかららしい.それも同じようなことかもしれない.いやちょっと違うか な.

それともこういう心地よさが物事を正常に論理的に考える心を奪っているのか, いやそんなことはないと思いたい.

2001.8.30


WeatherEyeにリアルタイムお天気 というコーナーがあって一般の人が勝手に今の自分のいる場所の天気を投稿す ることができる.夕立のような非常に局所的な現象が起こっているときにこれ を見るとすごく面白い.あ,もう横浜では雨が止んでいるんだ,とか隣の区の はずなのに天気が全然違うとか.みんなが自分のいる場所の天気をリアルタイ ムで投稿するのですごいいろんなことがわかる.こういうのってインターネッ トの大きな長所だ.アメダスや気象台よりもはるかに細かい分解能で現象を見 ることができる.正確な雨量や風速はわからないかもしれないけど,ただ単に 「雨が強い」とかその程度の情報でも役にたつことはあるだろう.こういうデー タをもっとシステマティックにとれないものかねえ.

2001.8.27


もう夏も終りだけど,まだかき氷の旗を見ることができる.この前友達と町を 歩いていて発見したのだけど,かき氷の旗にもいろんなバリエーションがある. 赤い文字で「氷」と書いているのと,下の方に濃い青で波が書いてるのは同じ なのだけど,波の形にもいろいろあるし,「氷」の文字の上の方の両サイドに 水色の鳥が飛んでいるものがある.水色じゃなくて,緑の鳥の場合もある.

「氷」の文字や波はわかるけど,あの鳥は一体何なんだろう.大体水色や緑の 鳥っているのか?あの旗は誰かが商標権でも持っているのだろうか.それとも みんなが勝手に作っているものなのだろうか.軽くgoogleなんかで検索してみたが,別に面 白い情報は得られなかった.

これはちょっと本格的に調査してみる必要があるかもれない.って今年の夏も そろそろ終ってしまうんだよな.来年まで覚えてるかな.

2001.8.25


研究室のママチャリのパンクを直さなきゃと思って直していない.随分前にた だのパンクだろうと思って直そうとしたのだけど,タイヤがもう擦り切れてい た.タイヤごと変えなきゃいけない.ママチャリの後輪のタイヤ変えるのって 面倒くさそうだな.昔KUCC(京都大学サイクリング部)のMLでこの議論はしたよ うな気がするのだが,どうやればいいのかとっさには思い浮かばない.

チェーン引きをゆるめて,スプロケットを外し,それからブレーキはつけたま まで,フレームからホイールを外せばいいのかな.きっとそうに違いない.そ の前にタイヤ買いに行かなきゃ.あー,24インチのタイヤ,どこに行けば売っ てるのかな.何で研究室の自転車はみんな24インチなのだろう.小径のホイー ルは町で走るには確かに楽しいんだけどね.

2001.8.24


「好き」なことには絶対にかなわない.人の役に立ちたいとか社会のためとか そういう使命感でやってる人は「好き」でやっている人にかなうわけがない. 自分が好きなんだっていう思いは純粋だし,絶対だ.誰もそんな彼/彼女の思 いを邪魔することはできない.だって好きなんだもの.

日本野鳥の会の「野鳥も 共存できる風力発電を」を読んでいるうちにふとそんな思いにかられた. 心から鳥が好きなんだろうな.日本野鳥の会が日本でも有数の自然保護団体で ある理由の一つはこのへんにあるのかも.よくわけのわからない哲学や思想を 背景に持つよりも,自分が好きだ,っていう思いの方が強いモチベーションと なるのであろう.「こうあるべき」より「こうしたい」方が強いよね.

そんな絶対的な「好き」を持った人間になりたいなあ,と.

2001.8.23


昔に自分で書いたメールを何とはなしに読み返していたら,自分でこんな問題 をだしていた.

自分で出しておいて答えがすっかりわからない.誰か答えがわかった人がいた ら教えてください(情けない).おそらく特殊な地形がからんでるとかそういう 類だと思うんだけどなあ.「見えない」っていうのがポイントかなあ.だって まともに考えたらそんな場所なんてないよねえ.

台風は何事もなかったかのように通り過ぎた.個人的な被害は,洗濯物をしま い忘れたこと.昨日の夜は寝てたら窓から雨が入ってきて,顔にあたって目が 覚めた.久しぶりに窓を閉めて寝た.

2001.8.22


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